御由緒
当神社の創建に関しては、境内に現存の天治(1124)
大治(1131)と読み得る石燈籠があります。
又、村の旧記に永徳3年(1383)霜月社殿再建と書か
れており、足利3代将軍義満の頃で再建とあるから、
これより更に以前に祀られた事がうかがえます。
元亀元年(1570)織田信長が石山本願寺攻めで、野田
城の三好党を討とうとしたとき、先陣の将荒木村重を
遣わして、戦勝を祈り陣馬陣刀を献じたと云われてい
ます。細川家の記録に海老江堤の田の中に陣したと記されています。
文禄3年(1594)延宝5年(1677)の検地帳に境内を免税にされた記録があります。
又、承応元年(1652)氏子の先覚道意翁が尼崎新田(道意新田)を開発。その氏神として当神社の御分霊を奉迂して祀った。(現 道意神社)と伝えられています。

沿革
大阪の住吉大社に保管されている難波古図があり、そこには天暦元年(947)と記
されていて、その古図に海老洲の名前が出ています。
又、文献などから、天皇が代替わりされる時に難波八十島祀りというお祓いの行事が西暦1037年に、海老江で行われていることから、「1000年ほど前にはこの海老江の地に集落があった。」と推測しても間違いはないと考えます。
この付近一帯は、昔、浪速八十島と呼ばれる多くの島の一つであり、鷺洲(サギシマ)とか海老洲といわれていました。時代的にいつ頃という決定的な事は分かりませんが、平安期には存在していたことは古記録により明らかです。

「わだの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」  参 議 篁
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆえ みをつくしてや 恋わたるべき」  皇嘉門院別当

大阪のシンボル「みおつくし」は、舟の進路を示す標識のことであり、当地付近もこの標識がなければ舟の航行が困難な程河川が入りまじり、芦が生い繁っていました。
大阪湾の事を茅渟(チヌ)の海と云いますが、チヌとは鯛の事であり、往時は魚類が好んで生息した事が想像されます。同様の環境にある海老江も特にその名の「蝦」(エビ)に縁深く、蝦は偕老同穴(カイロウドウケツ)と申し仲睦まじい夫婦の表現に用いられます。
正月祝いも、婚儀祝いも蝦が用いられ「ひげ長き海老江」等と不老長寿の意味に用いられる目出度い地名であります。

「ひげ長き 海老江の松の 千代かけて ふとしき立てる 宮柱かな」   高宮正路

「菜の花の はじめや北に 雪の山」 松 瀬 青 々
菜の花畑をとおし、雪をいただいた六甲山を望み詠んだもので、
明治40年の作であるが当地はこの頃まで浪速津の中の一農村で
あり、農耕守護、生産守護、疫病災厄守護の御神徳を以て崇敬篤
く地車三基、枕太鼓一基の巡行は今猶夏祭りの神賑として行われ
ています。

昔は「牛頭天王社」と称せられていましたが、明治元年(1868)
明治政府より出された神仏分離令という、神社(神道)とお寺(仏教)を厳格に分ける通達により、農耕神であるスサノオノミコトを祀る現在の「八坂神社」に改名しました。

海老江 八坂神社

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